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日本大学-南條文雄と楊仁山の出会いと交流——同朋大学中村薫

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  • 2023-10-26 17:36
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原文标题:南條文雄と楊仁山の出会いと交流——同朋大学中村薫

今回の「中日仏教文化芸術」国際討論会にあたって、わたしは「中日浄土教交流」、就中、日本の南條文雄博士と中国清代末期の楊仁山居士との交流について発表したいと思う。南條文雄と楊仁山の間には清国で失われ、亦日本では見ることの出来ない多くの典籍の交換が為された。つまり、それまでは一部を除けば、経典の多くは中国から日本へ輸入されていた。ところがこの時期多くの経典が中国へ逆輸入されたのである。そこで、今回は南條文雄と楊仁山の出会いとその後の交流の意義について検討していきたいと思う。

実は二人の対面は、南條の留学先であるロンドンより始まる。その出会いの時期に関してはいろいろ考えられる。南條文雄は、「楊文会氏を憶う」(上)で、

 

  楊居士と初めて面会したのは明治十三年の四月であったと思う。其の当時英国倫敦の 我が公使館書記生で居られた末松謙澄君から手紙が参り、支那の公使館に仏教信者が居 って是非君に会い度いと云うから会ってはどうかという知

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らせがありましてもし会うな ら倫敦の自分の所で合ったがよかろうと云うことでありました。同学の笠原研寿君も居 りましたが、同君は牛津から外へ余り出ませんので、私丈け倫敦へ参って末 松君 の紹介の方に会いました。其の人は即ち楊文会氏であります。初対面の時居士は支那で 自分で翻刻せられた起信論義記を贈られて、起信論の梵本があるかと質問せられたけれ ども、未だ見たことが無いと答えました。すると居士は自分が仏教に入った起信論であ ったから是非梵本を欲しいと思って探して居った。貴方に会い度いと思ったのも起信論 の梵本の存在が聞き度いからであったのだが、もし存在しないとすれば支那訳を大切に せねばならないと云うような話があったと思う。*[i]

と述べている。

 先ず二人の初めての対面は、一八八〇年(明治十三)に、ロンドンの末松書記生の愚所で実現した。同学の笠原研寿氏は殆どオックスフォードから出なかったようで南條文雄一人で出かけた。ただ、その時期がいつであったのかについてはいろいろ考えられる。例えば、陳継東博士の報告によれば*[ii]、南條文雄の「学窓雑録」によって、一八八一年六月三〇日と断定され、また、「南條文雄自叙伝」では一八七八年と推定できるとされている。筆者も『事略』により一八七八頃でないかと考えてきた。*[iii]じつは楊仁山は面会する前に、南條文雄と笠原研寿の両名に、

  弟在滬上與松本上人談次、得悉真宗高士、有西遊者、秉払於英。頃至倫敦、晤末松氏、 詢知二公退居学地、清習梵文。惜離都稍遠。不獲訪造瞻仰高風。欽佩靡已。*[iv]

と述べているように、書簡を送っていたのである。楊仁山は、上海別院の松本白華との談合により、南條文雄と笠原研寿の二人が、東本願寺の命で仏教学授のためイギリスへ遊学していることを知ったのである。その後しばらくしてロンドンへ行き、清国公使館に勤務している時、末松氏にあったという。二人がオックスフォード大学で梵文を詳細に学んでいると聞いた。都のロンドンから大学までやや離れているため尋ねて高風を拝見する機会はないが、敬服して已まないという手紙である。その書簡に一八八〇年四月二十六日とある*[v]ので、楊仁山から初めて書簡を貰ったのを、南條文雄が「明治十三年四月であったと思う」と面会日と勘違いしてたら、一八八一年六月三十日に初めて面会したということにもなる。何れにしてもロンドンで二人は面会したことは事実である。そしてその後三十年余りに渉って交流が続くのである。その時の様子を南條文雄は『懐旧録』で、

  当時駐英支那公使は侯爵会紀沢という人であった、この人は忠談を以て聞こえたかの 曽国藩の長子で公使館の参賛官、陳遠済氏はその妹婿であった。また同公使館の書記生 に仁山楊文会君がいて、非常な仏教信者であった。私は末松謙澄君の紹介により、同君 の愚居においてこの陳遠済および楊文会の二君に面晤したのである。もとより支那語が できないから筆談をはじめた。すると仁山君は白身の刊行せられた『大乗起信論序』一 冊を私に贈り、この本によりて仏教に帰したる旨を告げてその梵本の存否をただされた が、私はまだその現存するものを聞かないので、ありのままに返答すると、仁山君はよ ほど失望の様子に見受けられた。*[vi]

と述べている。

 内容的には先の「

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楊文会氏を憶う」(上)とほとんど同じであるが、二人は筆談で自分の思いをそれぞれ伝え合った。南條文雄は楊仁山のことを「非常な仏教信者」と述べている。そして、自分で翻刻した『大乗起信論』を南條

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文雄に贈り、「梵本はないか」と尋ねるのである*[vii]。この時点で楊仁山が南條文雄に会いたかった唯一の目的は、『大乗起信論』の梵本が欲しかったからである。ところで、この『大乗起信論序』がどのようなものか不明確である。その点、先の「楊文会氏を憶う」(上)の中では「初対面の時居士は支那で自分で翻刻せられた起信論義記を贈られて」と述べている。もし『大乗起信論序』が不明ならば、法蔵の『大乗起信論義記』を貰ったとも考えられる。しかし、『大乗起信論議記』は、唐代中国華厳宗の大成者賢首大師法蔵の著書である。だから、当然梵本はあるはずもないことである。何れにしても南條文雄自身にしか分からないことであるが、じつは、楊仁山自身も「僕は馬鳴宗を建立して、大乗起信論を以て本と為し」*[viii]と述べているように『大乗起信論』の信奉者であったことが理解できる。そして、「大乗の機は自ら馬鳴に啓かれ、浄土の縁は蓮池に因り、華厳の学は則ち方山に遵循す。」*[ix] と述べているように、『大乗起信論』により啓発され、蓮宗の雲棲宏により浄土教を学び、自らの教学は華厳経によっているというのである。このことは正しく中国浄土教のオオソドックスな流れの中に身を置いていることを示している。かかる点は、南條文雄も「楊文会氏を憶う」(下)で、

  居士は華厳の法門に興味を有って居ったから華厳部のものも多く翻刻されました。華 厳に興味があったのは居士が起信論に依って仏教に入ったと云う関係からでありましょ う。*[x]

と述べている通りである。また、重複するが、南條文雄は『懐旧録』で、

  仁山揚文会氏は、英京の清国公使館員で帰国ののち南京において金陵刻経所を開いて 数多の仏典を刊行した人である。華厳の学者で、とくに『起言論』を愛好し、私にその 梵本の有無を尋ねられたことがあったが、「まだこれを見ない」と言うと、氏は非常に 落胆の面持ちであった。*[xi]

とも述べている。

 楊仁山は、また華厳の学者であった。これはまた追々述べていくが、華厳の円融無碍の世界観と浄土真宗の選択本願の世界観の対立が、日本中国の浄土教の論争に繋がっていくのである。その対面を切っ掛けとして、後に南條文雄は楊仁山に経典を贈り、それを受け取った楊仁山は早速翻刻するのである。その典籍は、

一、讃阿弥陀仏潟       北魏曇鸞作

二、往生論註上下二冊     同  右

三、略論安楽浄土義      同  右

四、安楽集          唐道綽作

五、観無量寿経疏四冊     唐善導作

六、成唯識論述記二十冊    唐窺基作

七、閲蔵知津二十余冊     明藕益大師智旭作

の七部である。*[xii]

 前述したように、楊仁山はここで初めて日本浄土教の曇鸞道綽善導の書を手に入れたのである。南條文雄の「楊文会氏を憶う」(上)によれば、

  支那で撰述せられた仏書で覆滅して居るのが沢山ありまして浄土門で云うと、曇鸞大 師の往生論註とか、道綽禅師の安楽集とか、善導大師の観経四帖疏と云うもの元の時代、 若しくは明の始めから無くなって居りましたのを居士が日本から取寄せて翻刻せられま した。*[xiii]

と述べているように、楊仁山は素早く浄土の典籍を翻刻したのである。これらの典籍は、元の時代以後見ることが出来なかったものであった。それを中国の人々に伝えたのである。

但し、楊仁山は、

  敝処創弁之始、公議条例、凡有疑偽者不刻、文義浅俗者不刻、?壇之書不刻。*[xiv]

と述べているように、金陵刻経所には、創設当初より公議によって「三不刻」という規則があった。一つには疑経や偽経、二つには浅薄にして低俗な書、三つには迷信卜占祭祀に関する外教の書は、以上の三種の書は翻刻しなかったのである。そんな中、楊仁山は、

  前因北方君属敝処将七祖聖教刻全、遂検閲選択本願念仏集、覚其中違経之語甚多、已 略加批評。復将真宗教旨詳覧一、遂細批評、送與北方君。*[xv]

と述べているように、真宗七高僧の聖教の内、曇鸞の『浄土論註』、道綽の『安楽集』、善導の『観経疏』は素早く刊行した。しかし、特に法然の『選択集本願念仏集』は、経典に背くことが頗る多く、『評選択集』を顕して批判した。同時に丁度その頃小栗栖香頂の中国布教のため刊行された『真宗教旨』を読む機会もあり、改めて経意に反することが多くあったので批判を加え『評真宗教旨』を顕して、北方心泉に渡して南條文雄の所へ届けさせたのである。従って、たとえ南條文雄から頂いた聖教であっても『選択集』の翻刻は無かったのである。

 さて、このように交流を深めていった二人ではあるが、その後は一度も再会していない。南條文雄は『懐旧録』で、

  明治三十五年仏領トンキンにおもむいたとき、仁山君を南京に訪うつもりで上海から その書状を提しておいたが、しかし、帰途上海に着したのはときすでに年末でもあり、 また南京の寒気が甚だしいと聞いたので、ついにこれを断念し遺憾ながらその目的を達 しえなかったのである。帰京してただちに同君の書状を送致したが、すでに老病中でも あったのか、以後再び同君の書信に接することはできなかった。*[xvi]

と述べている。そのことを南條文雄は「楊文会氏を憶う」(下)では少し詳しく述べている。

  日本には仏教に関する古書が沢山あるから是非一度日本へ渡って書物を見たり学者に 会いたいものだと屡々云って来られましたが、遂に見れませんでした。晩年に至りまし てからは身体が弱ったから断念したと云って来られました。私は明治一三四の両年英仏 で会った以後一度も面会の機を得ませんでした。明治二十年に支那に参りました時、天 台山に登り、杭州や蘇州へ出ましたが、居士の所まで行くことが出来ず、又た去三十五 年仏領東京へ行きました時、帰りに上海から小田切領事に案内して貰って居士を訪ねる 都合でありましたが、同行の高楠藤島二君が帰国を急がるるのと小田切領事も年末で多 忙だから案内が出来ぬと云うことで、本意なくもよう訪問致しませんでした。

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此の時に 予め居士と約束して置きましたこととて非常に失望せられた様子でありました。其の後 三十九年迄京都の蔵経書院の依頼で居士から仏書を借りる取次の為めに書面の往復は層 々ありました。三十九年以後は蔵経書院の中野君から直接に書面往復があるようになり ました。昨四十三年五月我派の法主に随行して上海へ参りました時、南京に博覧会があ りましたので、法主が南京に行かれましたならば私共も随行して参り、居士にも面会し 消息を知り得るかと思って居りましたが法主は南京に参られませんでした。其の以前楊 居士が亡くなられたと云うことを日本で聞いて居りましたから、上海に居ります時金陵 刻経所へ宛て居士の安否を手紙で照会しましたが、返事がありませんでした。恁う云う 風で、英国で別れましてから後は残念ながら一度も面会することが出来ませんでした。*[xvii]

 このように楊仁山とは英国で会ったきり二度と会うことはなかった。楊仁山もぜひ一度日本へ来ることを希望していたようであるが実現は叶わなかったようである。南條文雄も二度ほど中国へ行ったが再会する機会はなかった。しかし、二人は仏教の教えを通して書簡を三十五通ほど交流し、個人を超えた日本と中国の仏教交流をしていったのである。

 重複するが、南條文雄と楊仁山は何度も経典の交換を行っていたことは周知のことである。

 楊仁山は『事略』では*[xviii]、

  蔵外の古失した著述を二百余り得る

と述べているが、『等不等観雑録』巻三では*[xix]、

  計三百余種。其中専談浄土之書。

とあるが*[xx]、これは著述は全部で三百あり、そのうち二百が浄土関係の書であると見るべきであろうか*[xxi]。この点に関しては、今、南條自身が一九一二年九月に『大日本続蔵経序』で、

  貴国亦有印経之挙有。可謂不約而同将来彼此交換。最為便捷、此指弘教書院縮刷蔵経 之事。亦可以知金陵刻経所之縁起也。明治二十四年以後、余道友相議、所贈居士和漢内 典凡二百八十三部、而居士翻刻却贈來者、殆及十余部。如曇鸞、道綽、善導、窺基、智 旭之書、亦在其中。居士已熟知刊布之難、而蔵経書院毎月未会誤其発行期。是居士所以 随喜供給其材料也。而居士已以去年易簀、不能見君之成功。是為憾耳*[xxii]

と述べていることにより、南條文雄が楊仁山に送った和漢内外の経典の数は二八三部であることは明かである。その中には既説したように中国では紛失してしまっていた曇鸞、道綽、善導などの浄土教の典籍も含まれていた。そして、居士もその中から必要とするものを撰んで翻刻していった。それは大変困難な仕事であるにも係わらず、居士がてきぱきと仕事していることを南條は驚嘆している。それはまた居士の随喜するところでもあったが、残念ながら『大日本続蔵経』が世に出る一年前に居士は命終した。是れは南條にとっても遺憾なことであったに違はない。また、一九〇九年(明治四十二)の「中外日報」*[xxiii]では、「支那仏教の恩人」と題して、南條文雄と楊仁山との間に、互いに失って見られない典籍や、それまで互いに知ることの無かった典籍を交換しあっていたことが紹介され、楊仁山を中国第一等の仏教学者であり、中国仏教の恩人であると紹介されている。

 何れにしても楊仁山は、頌して、

  真諦俗諦 如車両輪 扶桑震旦 歯之與唇 

  駕車来遊 以道伝薪 方言奇字 奥妙絶倫*[xxiv]

と述べている。楊仁山は、真俗二諦論は車の両輪であり、日本と中国は歯と唇のようなもので、切っても切れない関係であると述べ、日本の中国における仏教伝道を称賛するのである。それは正しく牛馬の車に乗って来遊し、道を通交して薪を配達するように、地方のめずらしい聞き慣れないような言葉で、奥深く絶倫な布教をするようなものである。このように日本の中国布教に対して、楊仁山は違和感を持たず向かい入れている。しかし、このことは陳継東氏も指摘しているが如く「揚文会は全面的に真宗に同調したのではなく」*[xxv]、この時期、例えば、『評真宗教旨』*[xxvi]で

  十余年前、獲真宗教旨一巻、悉心研究、覚與経意不合処頗多

と述べているように、十年来真宗の教えを学んでいるが、どうしても本来の経典の持つ意味と異なるところが多く見受けられる。仏教を学ぶ姿勢として、どこまでも経論に忠実でなければならないと主張するのである。例えば、大乗小乗というけれども、それは後の自身が大乗に属するという立場の人が、他をして小乗というのであって、自ら小乗と称する人はいないはずである。深く因果の道理に立てば、大乗の誹謗すらすべきでないと主張するのである。その様な意味から、今この『真宗教旨』について、到底容認できないところがあるのでこれから批評を加えたいというのである。その場合、注意しなければならないことは、楊仁山は真宗大谷派教団の批判というより、あくまでも法然親鸞の浄土真宗の仏教に対して批判しているのである。

 ただそんな中で、楊仁山自身、

  庶幾支那声名文物、為各国所器重、不至貶為野蛮之国矣。*[xxvii]

と述べているように、やはり中国仏教の名声や尊厳が地球の各国で重んじられ、決して中国が野蛮な国であるということを云わせてはならないというプライドがあったと考えられる。だから楊仁山は、南條から送られた経典の内が逆輸入された中国撰述のみを翻刻し、決して日本撰述は翻刻しなかったのである。つまり、楊仁山は、真宗の中国布教に対しては最初から批判の立場にあったといってよいであろう。

 いま、その批判文章を南京の北方心泉に送って、南條文雄に手渡すよう依頼しているのである。この点は陳継東氏は「楊文会は、思想的立場の相違に関して真宗に妥協することはなかったが、現実の交流面ではむしろ積極的に協力していた」*[xxviii]と指摘されているが、やはり南條文雄を除いた、真宗との交流面でも内面的には批判的であったといってもよいであろう。このように「思想的相違」と「外面的交流面の協力」の二重性を持った楊仁山の姿勢は、実直にしてしかも教学を重んじる楊仁山の人となりを知るのに重要な事柄である。

 その点に関して、南條文雄は『懐旧録』で、

 のち陳、楊二君が私たちを尋ねてオックスフォードに来遊せられたので、私は前約のとおり両君を導いて牛津大学の出版所におもむき、さきにマックス?ミュラー博士の校訂で出版されたリグベダ梵字の活字を一覧したことであった。その後も仁山君とは久しく書信を往復し、或るときには同君の依頼で『阿弥陀径』の梵文の直訳を作って郵送したりしていたが、やがて仁山君は帰国して南京に金陵刻経所を開設して仏教書籍の刊行に力められしばしば私のもとにも書信を送って、支那にその所伝を失った目本現存の仏書の翻刻を志し、その援助を依頼されたので私もこれを壮とし、赤松連城君と謀りてできうるかぎりの便宜をとり計らったのである。同君が現代の支那仏教に遺された功績は全くこの点に存すると言ってよい。*[xxix]

と述べている。

 南條文雄に云わせれば、とにかく楊仁山は梵本はもとより、既に中国で散失してしまった仏教経典の蒐集出版には、自身の心血を注いでいたといってよいであろう。南條文雄は楊仁山の金陵刻経処の出版事業にに対して、中国仏教復興に於ける多大な業績であると称賛しているのである。



*[i] 「中外日報」(明治四十四年十一月十二日)

*[ii] 陳継東『清末仏教の研究』(山喜房仏書林刊?二〇〇三年)一二五頁。

*[iii] 拙書『中国華厳浄土思想』(二〇〇一年?法蔵館)「第五章 楊仁山の日本浄土教批判」二六〇頁。

*[iv] 『等不等観雑録』巻七(『楊仁山全集』四七二頁)

*[v] 陳継東『清末仏教の研究』一二五頁

*[vi] 南條文雄『懐旧録』(一九九五刊 平凡社)一三九頁

*[vii] この『大乗起信論』は、今日では、印度撰述説、中国撰述説と二分している。中国説であれば梵本は無いはずである。ただこの頃は印度撰述と思われていたので梵本を求めたのかもしれない。楊仁山自身も半ばあきらめて「もし存在しないとすれば 支那訳をたいせつにせねばならない」(先掲「中外日報」)と考えたかもしれない。

*[viii] 『等不等観雑録』巻五「與李小芸処一」(『楊仁山全集』四三九頁)

*[ix]『等不等観雑録』巻七「與日本南條文雄書二」(『楊仁山全集』四七八頁)

*[x] 「中外日報」(明治四十四年十一月十四日)

*[xi] 南條文雄『懐旧録』(一九九五刊?平凡社)二〇〇頁

*[xii] 南條文雄『懐旧録』(一九九五刊 平凡社)一四〇頁

*[xiii] 「中外日報」(明治四十四年十一月十二日)

*[xiv] 『等不等観雑録』巻六「與郭月楼道直書」(『楊仁山全集』四六七頁)

*[xv] 『等不等観雑録』巻八「與日本南條文雄書二十二」(『楊仁山全集』五〇二頁)

*[xvi] 南條文雄『懐旧録』(一九九五刊?平凡社)一三九頁~一四一頁

*[xvii] 「中外日報」(明治四十四年十一月十四日)

*[xviii] 『楊仁山居士遺著』第一冊「楊仁山居士事略」十二帖右、なお『楊仁山全集』の「楊仁山居士事略」(五八三頁)では、「厥の後海外由り来たる蔵外の書籍二三百種を得る」とある。

*[xix] 『等不等観雑録』巻第三「彙刻固逸浄土十書縁起」『楊仁山全集』三六九頁

*[xx] 南條文雄によれば、「而も居士は翻刻し却って贈來するは、殆ど十余部に及ぶ

曇鸞、道綽、善導、窺基、智旭の書、亦其の中に在り」(「大日本続蔵経序」?『卍続蔵経』蔵経書院、一九一二年)とあるが如く、浄土教の祖師の翻刻をしている。

*[xxi] 南條文雄は、前掲「大日本続蔵経序」では「明治二十四年以後、道友と相議し、居士に和漢内典凡そ二百八十三部贈れり」と、明確に二百八十三部としている。そして、その中に法然の『選択集』があり、これが『真宗教旨』と共に後々の日中浄土教論争のもととなるのである。

*[xxii] 『大日本続蔵経総目録』(一九六七年?蔵経書院)三十五頁

*[xxiii] 「中外日報」(明治四十二年十月十二日)

*[xxiv] 『等不等観雑録』巻一(『楊仁山全集』三三九)

*[xxv] 陳継東『清末仏教の研究』(山喜房仏書林刊?二〇〇三年)二四〇頁。

*[xxvi] 『評真宗教旨』(『楊仁山全集』五二三頁)

*[xxvii] 『等不等観雑録』巻一「支那仏教振興策二」(『楊仁山全集』三三三頁)

*[xxviii] 陳継東『清末仏教の研究』(山喜房仏書林刊?二〇〇三年)二四〇頁。

*[xxix] 南條文雄『懐旧録』(一九九五刊?平凡社)一三九頁~一四〇頁

原文出处:http://www.fjnet.com/fjlw/201108/t20110803_183292.htm

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本文标题:日本大学-南條文雄と楊仁山の出会いと交流——同朋大学中村薫;本文链接:http://www.fzby666.com/changs/69485.html。

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