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曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔

  • 佛学常识-自在佛学知识网
  • 2023-10-26 16:52
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曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔 ,对于想了解佛学知识的朋友们来说,曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔是一个非常想了解的问题,下面小编就带领大家看看这个问题。

原文标题:曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔

  はじめに 曇鸞の『浄土論註』を尋ねる上で、最も注意せねばならない一つに「五念門」という課題がある。五念門とは、『浄土論註』に以下のように説かれる。    上の三門を成じて下の二門を起こす。何の所にか依る。何の故にか依る。云何が依る。  何の所にか依るとは、修多羅に依る。何の故にか依るとは、如来は即ち真実功徳の相  なるを以ての故に。云何が依るは、五念門を修して相応するが故に。上を成じて下を  起こすこと竟ぬ。(1) 「三依釈」と呼ぶものである。すなわち、曇鸞自身が世親の『浄土論』「願生偈」の句に依るべき所を、「何」、「何故」、「どのようにして」と三つに分け、示したものである。 その三つとは、第一に対象としての教証(教えに依る確かめ)、第二に理由としての理証(理論的証明)、そして第三に実践としての行証(上二つを合わした展開)である。したがって、そのことを集約するなら、教証は『無量寿経』の修多羅に依る、理証は真実功徳相に依る、行証は五念門を修することに依る、ということである。つまり、ここでの「三依」の視点でも看取できるように、曇鸞における五念門とは、正しく世親の『浄土論』を実践?方法として了解したと言えよう。 『浄土論』で説く五念門とは、礼拝?讃嘆?作願?観察?回向の五門から成立する。先の文に示しているが、曇鸞の五念門行とは、世親の「願生偈」の句を踏襲し、二者の側面から明かす。前者は上三門(礼拝?讃嘆?作願)を成就すること、また後者は下二門(観察?回向)を発起するということである。就中、世親が『無量寿経』に依って「願生する」意図とは、このような意味を踏まえている、と曇鸞はそう理解する。 本来、五念門行とは、『浄土論』長行で説かれる如く、善男子?善女人(優婆塞?優婆夷)、もしくは(「善巧摂化」から)菩薩が主となって、五念門の因の行を漸次に修めることである。そして、その因によって五功徳門(近門?大会衆門?宅門?屋門?園林遊戯地門)の果を得る。なかでも、五功徳門は入出二門に分けることができ、上四門の入が自利の功徳の果、下第五門の出が利他の功徳の果である。その自利利他の行が倶に成就し、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得るという。 世親本人は、『浄土論』の思想以外にも多大な功績を残している。言うまでもなく瑜伽行唯識の行者としてその名は有名である。世親の著『唯識二十論』、『唯識三十頌』、『摂大乗論釈』、『十地経論』等でも窺えるように、元より瑜伽行唯識の教証は、『十地経』(『華厳経』「十地品」も含む)、『解深密経』などが挙げられる。(2)これらの教証は、唯識、阿頼耶識、三性説(遍計所執性?依他起性?円成実性)といった課題が基本となる。就中、世親は『唯識二十論』で、  大乗にて三界唯識なるを安立す。契経に三界唯心なりと説くを以てなり。(3)と、大乗仏教では外境における実体は存在せず、契経(『十地経』)に拠って、三界はただ識のみが確立している、と説く。 この点で顧みるならば、世親の五念門行とは「三界は虚妄にして、但これ心のみ作す」(『華厳経』「十地品」)(4)といった、十地の歩み、三界唯心の菩薩道、つまり漸次の修道体系と言わざるを得ない。 しかしながら、世親の『浄土論』を、曇鸞の『浄土論註』の眼で重ね合わせ見た時、はたして、五念門行は瑜伽唯識の行の延長線上として見るべきだろうか。 というよりは、寧ろ曇鸞の註釈は、世親が『無量寿経』の教えに帰依し、仏と相応できた意味を顕示し感得しているのではないかとも考えられるのである。 以上の諸問題を踏まえた上で、本稿は、世親が説いた五念門の中でも、特に作願?観察の「止観」に課題をおく。止観とは文字通り、大乗菩薩道における基本的且つ重層的な実践行である。しかし、曇鸞の止観の了解は、従来諸師が説く理解と意味合いが異なる。したがって、今回は曇鸞の作願?観察における「止観」に焦点を絞り、その註釈と背景を尋ねていきたい。   第一 大乗菩薩道と『浄土論』 世親における『浄土論』の性格とは如何なるものか。長行で次の如く示す。  云何んが観じ云何んが信心を生ずる。若し善男子?善女人五念門を修して行成就しぬ  れば、畢竟じて安楽国土に生じて、彼の阿弥陀仏を見たてまつることを得。(5) 世親は「願生偈」で示す「観彼安楽世界」「見阿弥陀如来」「願生彼国」等の課題に、善男子?善女人がどのように安楽世界を観じ、どのように信心を生ずるのか、と問う。そして、世親はその課題に対して、五念門の行を修め成就することができれば、畢竟して「観見願生」(6)を得ると説くのである。 元来、大乗仏教で説かれる善男子?善女人(優婆塞?優婆夷)が、安楽国に生まれるということは珍しくない。周知の如く、『華厳経』の「入法界品」では善財童子や五三人の善知識を説き、また、『維摩経』は維摩詰居士、『勝鬘経』は勝鬘夫人など、童子、長者、王の妃と、対象は皆在家信者である。したがって、これら在家信者が仏に成ることが、大乗仏教の前提でもあり、また、そのことが大乗仏教二千年の歴史でもある。 その中でも、とりわけ大乗菩薩道と捉えた場合、その内容はとても複雑である。菩薩道とは、言うまでもなく、三十七菩提分法などに説示される四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道など七種の修道によって菩提を得ることであり、同時にそれは、自覚覚他が完成した仏陀を理想目標とする道である。(7)他方、前の八正道から、さらに進展する修行法として、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧等の六波羅蜜や、方便、願、力、智の四波羅蜜を加えた十波羅蜜も、また、菩薩道として基本である。すなわち、こうした菩薩道の目的は、仏智を求めつつ実践行を修めるのであるが、そのためには、般若の智慧を得ることが必須とされる。そして、世親に至っては、『華厳経』「十地品」から、瑜伽行唯識の立場としてその課題を担っている。 十地の歩みの中で特に重要なのが、第六地現前地である。現前地は字の如く、行者に般若の智慧が現前する。すなわち、六波羅蜜において空の智慧が完成す

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る所である。そのことは、『華厳経』「十地品」の第六現前地で以下のように説かれる。  諸法の本性は空にして、毫末の相有ること無く、空は分別有ること無く、同じくして  若しは虚空の如し。去住の相有ること無く、また、戯論も有ること無くして、本来常  に清浄し、如如にして、分別無し。若し人能く一切の諸法性に通達せば、有において、  無の中において、其の心動揺せず。(8) すなわち、第六地は、空の現前において自利の側面である根本無分別智を得る。しかし、この無分別智は、ただ行者のみの私有に留まらない。何故なら、第七遠行地から利他行の方便がはじまり、再び世間に帰り、他者に智慧を施さなければならないからである。そうして、第七、八、九地と回帰し、第十法雲地において利他の智を完成する。所謂それが、後得清浄世間智である。この後得智によって、はじめて行者は仏地に至るとされる。 要約ではあるが、これら大乗菩薩道は元来『華厳経』などを主として、二種の智である根本無分別智、後得清浄世間智を得ることが必須要綱であった。この二種の智を得ることで、自利利他が倶に円満し、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのである。 さて、こうした菩薩道の背景を鑑みて、世親の『浄土論』に立ち戻り注意してみると、次なる課題を想起する。それは菩薩道の基本「止観」である。周知の如く、『浄土論』では、その止観行を五念門の作願?観察として捉えている。 それらは、以下のように説かれる。  云何んが作願する。心に常に作願したまえりき。一心に専念して、畢竟じて安楽国土  に往生して、如実に奢摩他を修行せんと欲うが故に。云何んが観察する。智恵をして  観察したまえりき。正念に彼を観ずることは、如実に毘婆舎那を修行せんと欲うが故  なり。(9)                                 世親は作願?観察を、互いに奢摩他?毘婆舎那の止観として頷き、同時にそれを、如実修行として定義している。 そして、ここで注意すべき点は何故、奢摩他?毘婆舎那の止観が「如実に…修行せんと欲うが故に」と明示するのかという問いである。 すなわち、その如実の止観とは、曇鸞の『浄土論註』に至って、はじめて中身が具体化される。したがって、次にまず一般的に説かれる止観の意味内容を示す。その後に曇鸞が説こうとする止観の了解を顕示し、共に比較しながら尋ねてみたい。   第二 大乗菩薩道としての「止観」の意味 大乗菩薩道で説く「止観」とは、一体どういった意味を持つのであろうか。一般的に止観とは、「止」は禅定にあたり、「観」は智慧にあたる。 言うまでもなく、今日耳にする止観の意味内容を顧みても、その解釈は、法相、華厳、天台などまちまちで、それぞれの立場から展開し、経?論?釈を通しても多種多様である。それ故、今は一般的な止観の意味解釈を紹介するに留めたい。 中国仏教では止観の行が最も興隆したのは、曇鸞の生きた南北朝時代初期というよりかは、さらに時代を経た隋唐の頃であるとされる。(10) たとえば、法相宗などが重んじる玄奘釋の『摂大乗論釈』では、止観を次の如く示す。  此の諸地を修することを、云何に見るべきか。謂く諸菩薩は地地中に於いて奢摩他?  毘鉢舎那を

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修するに、五相の修に由る。何等をか五と為す。謂く集総修、無相修、無  功用修、熾盛修、無喜足修なり。是の如き五修は、諸菩薩をして五果を成弁せしむ。  (11) ここでの止観(奢摩他?毘鉢舎那)は、十種の階位(十地)における修習の様相を説く。「修習」とは、文字通り、繰り返し習うことをいう。 すなわち、その止観の修習とは、『十地経』で説く十地の歩みを五種によって展開する。第一、総括的に修習する、第二、無相にして修習する、第三、特別の努力なくして修習する。第四、火の燃え盛る如く修習する。第五、満足、飽きることなく修習する。そして、それによって、菩薩は五つの結果を現成するというのである。つまり、ここでの止観の語義は、「止寂」と「観照」として理解される。(12) 或いはまた曇鸞より時代は下るが、天台大師智顗(五三八ー五九七)の『摩訶止観』巻一上では、止観の意味を次のように示す。  天台には南岳の三種止観が傳わる。一は漸次。二は不定。三は円頓なり。皆これ大乗  なり。…(中略)…円頓とは、初めより実相を縁ず。境に造るに即ち中、真実ならざ  ること無し。縁を法に繁け、念を法界に一しうす。一色一香も中道に非ざることなし。  …(中略)…法性寂然なるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後を  言うと雖も、二無く別無し。是れを円頓止観と名づく。(13) 天台の止観とは、周知の如く、三種止観である。三種止観とは智顗が師と仰いだ南岳慧思(五一五ー五七七)から相承したものと言われる。所謂、漸次止観、不定止観、円頓止観の三種である。何れも、『法華経』で説かれる「諸法実相」を観察する大乗の止観である。上の二種は、智顗説の他の著書(漸次止観は『次第禅門』?不定止観は『六妙法門』)に詳しく説いている。すなわち、今紹介する第三円頓止観とは、修行の最初から最も深く高い実相を対境(観察の対象界の意味)として修する止観であり、諸法実相を「覩る」と掲げる究極である。そのため、智顗に至っては、とりわけ「観」が重視されたと言われる。(14) このような立場から、「止観」の解釈は諸宗の菩薩の修道実践によって様々ある。ならば、曇鸞の五念門における作願?観察の「止観」の理解とは一体何であるか。その意味内容を順次尋ねてみたい。   第三 曇鸞における「止観」の了解 さて、曇鸞の止観の了解に先だって、作願?観察の解釈を確認しておき

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たい。作願の「止」について次のように示す。  「奢摩他」を訳して「止」と曰う。「止」とは、心を一処に止めて悪を作さず。此の  訳名は乃ち大意に乖かざれども、義において未だ満たず。何を以て之を言うとならば、  心を鼻端に止むるが如きをまた名づけて止と為す。不浄観の貪を止め、慈悲観の瞋を  止め、因縁観の痴を止む。是の如き等をもまた名づけて止と為す。人の将に行かんと  して行かざるがごときをもまた名づけて止と為せばなり。(15) また、観察の「観」については以下の通りである。  「毘婆舎那」を訳して「観」といふ。ただ汎く観と曰うには、義また未だ満たず。何  を以て之を言うとならば、身の無常?苦?空?無我?九想等を観ずるが如きをも、皆  名づけて観と為せばなり。(16) そして、曇鸞はこれら「止観」の意味内容を総じて「木」の種々に喩える。  椿?柘?楡?柳の如くを皆木と雖も若し但木と云うときは安んぞ楡?柳を得るや。   (17) 曇鸞は、ただ「木」という名だけでは楡や柳を知ることにならないと言う。すなわち、曇鸞は、作願観察をとおして「止観」の一般的な解釈の曖昧さを問い質した。それならば、その理由は何であるのかを、作願三義、観察二義と設け、以下『浄土論』で説く二十九種(仏国土十七種、阿弥陀仏八種、菩薩四種)荘厳功徳から理証していくのである。 曇鸞は、作願の「奢摩他」を「止」と示す所以を、以下三つの意味があると提起する。  「奢摩他」を止と云うは三の義有るべし。  一には一心に阿弥陀如来を専ら念じて彼の土に生ぜんと願ずれば、この如来の名号及  び彼の国土の名号、能く一切の悪を止む。    二には彼の安楽土は三界の道に過ぎたり。若人また彼の国に生ずれば、自然に身口意  の悪を止む。  三には阿弥陀如来の正覚住持の力をして、自然に声聞?辟支

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仏を求むる心を止む。  (18) 周知の如く、二十九種荘厳功徳の内容から照合すれば、第一の意義は、正しく「妙声(名声)功徳」である。それは「如来?国土の名号」の呼びかけであるから、  梵声悟す深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ。(19)と、如来が全ての衆生にも作願を与えようとする意味を示す。(20) つづいて第二の意義は、「清浄功徳」のことを示す。それは、『浄土論』「願生偈」でも説かれている如く、  彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり。(21)と、第一の「妙声功徳」に関連して、名号を聞く者は娑婆世界の三界の道を過ぎていく身であるから、もし人が彼の安楽浄土に生まれるなら、おのずと身口意三業の悪が止むと言うのである。 また、最後第三の意義は、「主功徳」のことを示す。すなわちそれは、  正覚の阿弥陀 法王善く住持したまえり。(22)と、阿弥陀如来の正覚が衆生を支え持つ力となって、おのずと声聞、縁覚(辟支仏)などの二乗地が目標とする空性?無相?無願などの三解脱門を求める心を止むと言う。 以上三種の意義を提示してみた。そして、曇鸞はそれら三種の意味内容を以下のようにまとめて明かす。  この三種の止は如来如実の功徳より生ず。是の故に「欲如実修行奢摩他故」と言えり  と(23) 曇鸞は正しく作願の「止」が如来如実の功徳からそのまま生じると示した。それは所謂、人間からの作願に停まるのではなく如来の作願として、奢摩他の「止」を注意していたのである。何故なら、『浄土論註』の「願生偈」ではそのことを端的に押さえているからである。  「願生安楽国」とは、此の一句は是れ作願門なり。天親菩薩の帰命の意也。(24) したがって、こういった世親の「帰命の意」に立つことにより、曇鸞は荘厳功徳から人間の作心(発心)を止む三つの意義を見出し、また「欲如実修行奢摩他故」と了解したのである。 つづいて観察の「観」から「毘婆舎那」の以下二つの意義を確認したい。  「毘婆舎那」を観と云うはまた二の義有り。  一には、此に在りて想を作して彼の三種の荘厳功徳を観ずれば、この功徳如実なるが  故に、修行するものもまた如実の功徳を得。如実の功徳とは、決定して彼の土に生ず  ることを得るなり。  二には、また彼の浄土に生ずることを得れば、即ち阿弥陀仏を見たてまつる。未証浄  心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と上地の菩薩と、畢竟じて同じく  寂滅平等を得。(25) 第一の意義は、二十九種(仏国土十七種、阿弥陀仏八種、菩薩四種)荘厳功徳の全体を示すと想定される。そしてその「如実の功徳」は、古来先学の教示で顧みれば、「真実功徳」の意味として見ることができる。(26) はじめに「此に在りて相を作す」と示しているが、「此」とは穢土であり、迷いの三界である。そこにおいて「彼の」三種荘厳の二十九種功徳を観ずれば、如実の功徳を得て「彼の土に生ずることを得る」というのである。「彼の土」とは安楽世界であるから、如実功徳は人間の作心で得ることが難しい。したがって、ここで指し示す如実の功徳は先ほど挙げた「真実功徳」と重なる。すなわちそれは三種荘厳二十九種の功徳を全て観ずる相として「真実功徳相」を示すと理解できる。曇鸞は『浄土論註』上巻でその「真実功徳相」の意味内容を以下二つに分ける。  「真実功徳相」とは、二種の功徳有り。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。所  謂凡夫人天の諸善、人天の果報、若しは因若しは果、皆是れ顛倒、皆是れ虚偽なり。  是の故に不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。  法性によりて清浄の相に入る。是の法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳と為  す。云何が顛倒せざる。法性によりて二諦に順ぜるが故に。云何が虚偽ならざる。衆  生を摂して畢竟浄に入らしむるが故にと。(27) つまり、前者「不実功徳」は人間が生ずる心がどこまでも「諸善」を積む延長線上の功徳ということである。他方、後者「真実功徳」はそのような諸善の数量を完全に超え出た法性に基づく功徳と言う。 続いて第二の意義は、不虚作住持功徳を踏まえているということである。不虚作住持は三種荘厳二十九種功徳の中で阿弥陀仏荘厳の第八に位置する。そして、「願生偈」では以下のように示す。  仏の本願力を観ずるに 遇いて空く過る者無し、  能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。(28) 曇鸞は人間の現実が虚しく過ぎゆく在り方を問い、この世に支えるものが何も無いことを説く。だからこそ、「虚しく作さない」阿弥陀仏の本願力に全てを乗託すると、示すのである。 すなわち、曇鸞はそうした人生が空過する現実に目を向け、「不虚作住持」を以下の如く明かす。  言う所の「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神  力とに依るなり。願以て力を成ず、力以て願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。  力?願相符うて畢竟じて差わざるが故に「成就」と曰う。(29) 要するに『無量寿経』で説かれる法蔵菩薩は、四十八願を因位の修行の時に建立した。この「願力」の側面は因位の願が果上の仏力を完成した「成」(因→果)である。また、もう一方の「願力」の側面は今日の阿弥陀如来と成られた自在神力である。それは、果上の仏力から因位の願に順ずる「就」(果→因)である。そこには、もはや、いたずらな願いもいつわりの力もない。ただ、双方が相応じて(因果)、証明し合い住持する。したがって、不虚作住持はこういった語句解釈を凝集して「成就する」というのである。 以上、作願三義、観察二義を考察してみた。何れも、二十九種荘厳功徳の範疇で課題を担うものである。したがって、これらを整理すると以下のように理解できよう。 作願「止」①妙声功徳(第十一番目)    仏国土功徳荘厳   ②清浄功徳(第一番目)    仏国土功徳荘厳      ③主功徳(第十二番目)     仏国土功徳荘厳 観察「観」①二十九種荘厳功徳 仏国土?阿弥陀仏?菩薩の三種功徳荘厳   ②不虚作住持功徳(第八番目) 阿弥陀仏功徳荘厳 総じて幾つか気付く点がある。特に観察第二義ー不虚作住持功徳は、五つの意義の中でも、阿弥陀仏功徳荘厳を対象としているため注目すべき所である。したがって、今回は、主に不虚作住持功徳について具体的意味を尋ねたい。   第四 曇鸞における「不虚作住持功徳」の受容と展開 さて、「不虚作住持功徳」とは、菩薩道において如何なる課題と展開を示すであろうか。そういった意味を踏まえながら、この項でその内容を確認したい。 曇鸞の『浄土論註』冒頭には、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「易行品」を掲げている。曇鸞にとって龍樹の課題とは如何なるものか。それは次のように示す。  阿惟越致地に至るには、諸の難行を行ずること、久しくして乃ち得べし。或いは声聞?辟支仏地に堕す。若しからばこれ大衰患なり。(30) すなわち、菩薩による不退転地を求めていく十地の歩みは、諸々の困難の行を久しい間修行し歩まねばならない。ところがその歩みは、常に二乗地(声聞?縁覚)の三解脱門(空性?無相?無願)の在り方に堕ちてしまう難の行を伴っている。所謂、古来より説かれる「諸?久?堕」の三難である。(31) ここでの曇鸞の課題はそれら三難を踏まえた上で、さらに五難の問いを設ける。     一には外道の相善は菩薩の法を乱る。二には声聞は自利にして大慈悲を障う。三には  無顧の悪人は他の勝徳を破る。四には顛倒の善果はよく梵行を壊る。五には唯是れ自  力にして他力の持つ無し。(32)  一、二が説いているのは、人間の能力を基準として仏道を計っていく在り方である。そして、三、四は三宝に帰依することのない人間の問題と言えよう。(33) ところで、何故曇鸞はそのような「五難」を開くことができたのか。以下の如くいう。  「易行道」とは、謂わく、但信仏の因縁を以って浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力   に乗じて、便ち彼の清浄の土に往生を得、仏力住持して、即ち大乗正定の聚に入る。  正定は即ち是れ阿毘跋致なり。(34) 曇鸞は龍樹菩薩の十地の歩みによって易行の道を得た言う。同時にそのことは、信仏の因縁において、行者の現実を「難」と受け止めることができたと言うのである。すなわち、曇鸞はそのような菩薩道における人間の智恵、才覚といった資糧の在り方を問い返し、最後第五の難である「唯是れ自力にして他力の持つ無し」と断言したのである。 つまり、そうした大乗菩薩道の課題こそが、「不虚作住持功徳」の担う問題である。したがって、その意味内容は以下の如く確認することができる。  即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を証することを得  て、浄心の菩薩と上地の諸の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るが故に。(35)と、菩薩修道の十地の歩みの中で起こる「未証浄心の菩薩」、「浄心菩薩」、「上地の諸菩薩」の格差の問題がある。特に「未証浄心の菩薩」に至って言えば、曇鸞は次のように註釈する。  「未証浄心の菩薩」とは、初地以上七地以還の諸々の菩薩也。(36) 未だ清浄の境涯である第八不動地に住することのできない第七遠行地までの菩薩を示す。菩薩の歩みでは、第六現前地は煩悩の障りが無くなり、般若波羅蜜が現前し根本無分別智が完成する。ところが、第七「遠行地」に至っては、出世間から世間へと指向を転換させ、後得清浄世間智を完成させなければならない。ここにおいて人間の有漏心、分別心の問題が生じてしまう。すなわち、こういった課題を曇鸞は、以下のように明かす。  菩薩、七地の中において大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度  すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。(37) 人間の努力における智慧によって、どうして六地の般若が得られるのか。もし般若を得たと理解するならば、それこそ正しく「上に求める諸仏を見ず、下に救われる衆生を見ない」事実であり、また仏道の目的を見失うのではないかと言うのである。 言い換えるなら、龍樹が「易行品」で説く二乗地に退転する「菩薩の死」と言えよう。(38)したがって、そういった七地沈空の難は「浄心菩薩」、「上地の諸菩薩」の八地以上とは決定的に異なり、菩薩道を完成する障害と言わざるを得ない。  故に、曇鸞は菩薩の十地の階次を次のように示す。  十地の階次というは、是れ釈迦如来閻浮提にして一の応化道ならくのみ。他方の浄   土は何ぞ必ずしも此の如くならん。五種の不思議の中に仏法もっとも不可思議なり。  若し菩薩必ず一地より一地に至りて超越の理無しと言わば、未だ敢えて詳かならず。  (39) 曇鸞は十地の階次について「釈迦如来がこの世において仮に一つの応化道(道標)を示してくれたにすぎない」と端的に示している。菩薩道とは釈迦が歩んだ成道を理想とした修道体系に他ならない。だから「他方の浄土」と呼ぶ阿弥陀仏の浄土は必ずしもそのような道程を指すのではない。むしろ求道者が救われる「超越の理」を知らないと、そう曇鸞は説くのである。故に、仏道の課題を曇鸞は、専ら『無量寿経』で説かれる法蔵菩薩の四十八願に随順し、世親の『浄土論』で示す菩薩階次の歩みの難を超克したのである。 曇鸞が掲げる願生浄土の仏道は、あくまで個人的証果に止まらない。不虚作住持の根本に依るものである。したがって、どこまでも「虚しく作さない」阿弥陀仏に基づいて全ての衆生を救済する仏道体系である。曇鸞は『浄土論註』で不虚作住持に立脚した根拠を以下のように示す。  阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩、  婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、彼に生ぜんと願ずるは、まさに此れが為なるべきならく  のみ。(40) インドの龍樹菩薩、世親菩薩もまた「見阿弥陀如来」によって浄土に生まれんと願われたのであると、曇鸞はそう説くのである。 以上、曇鸞はこういった観察第二義ー不虚作住持功徳の課題を通して、「毘婆舎那」の「観」の意義及び背景を示した。そのことはすなわち、世親が説く「欲如実修行毘婆舎那故」の文を不虚作住持の如実として了解したと言えよう。   おわりと今後の展望 以上、曇鸞の五念門における「作願」三義、「観察」二義の内実を尋ねてみた。曇鸞における奢摩他毘婆舎那の「止観」の了解は、従来説かれる「止観行」とは大きく異なる。作願で示す第三の「主功徳」、観察で示す第二の「不虚作住持功徳」といった内容は、正しく菩薩の修道体系の限界性を示すからである。つまり、そこから曇鸞は世親が説く「止観」の本来的意味を「欲如実修行奢摩他故」「欲如実修行毘婆舎那故」と了解したのである。したがって曇鸞が『浄土論註』で説こうとする五念門とは、「観彼安楽世界」を主とする無漏智の止観行から「見阿弥陀如来」を主とする如実修行の止観行へとシフトする、「凡夫」を救済対象とした思想背景であったと改めて理解することができる。    注(1)『大正』四〇?八二七c(2)兵藤一夫著『唯識ということー唯識二十論を読むー』(春秋社 二〇〇六) 二六ー 二七頁参照。隋唐代、瑜伽行派の主要な文献として中国に伝承した慈恩大師窺基は(六三一ー六八二)『成唯識論述記』(『大正』四三?二二九cー二三〇a)の中で、瑜伽行唯識の所依の経論を、六経十一論と定めた。経は、『十地経』(『華厳経』「十地品」も含む)、『解深密経』、『如来出現功徳経』、『阿毘達磨経』、『楞伽経』、『厚厳経』(『密厳経』)であり、また論では『瑜伽論』、『顕揚聖教論』、『大乗荘厳経論』、『摂大乗論』、『中辺分別論』、『分別瑜伽論』、『阿毘達磨集論』、『唯識二十論』、『十地経論』、『集量論』、『観所縁論』など、以上六経十一論である(3)『大正』三一?七四b(4)『大正』「六〇華厳」九?五五八c(5)『大正』二六?二三一b(6)曇鸞は第一の標題を「願偈大意」(『大正』四〇?八三五a)と示した。この「願偈大意」における「観彼安楽世界」「見阿弥陀如来」「願生彼国」の語句説明を、稲葉圓成氏の見解で明かすと次のように示される。「観彼安楽世界は観彼世界相の意を要約したもの、見阿弥陀仏は観仏本願力遇無空過者の意であることが開暁さるる。そして願生は故我願生彼である。…(中略)…然れば此の大意を燈明臺として「偈」を照らす時、「偈」が一心偈なること毫も疑いなし。然るに今の大意には一心帰命といわず、観見願生と宣べるは何故か。これは願生偈の題号が下に既に論じた通り、論主の安心が建立浄土の弥陀によって確立したからである。」(『往生論註講要』 法蔵館 一三六ー七頁)(7)荒牧典俊訳『十地経』(長尾雅人?梶山雄一監修『大乗仏典』八巻所収 中央公論新社 二〇〇三)三九六ー三九七頁参照(8)『大正』九?五五八a(9)『大正』二六?二三一b(10)鎌田茂雄著『中国仏教史』(岩波書店 二〇〇四)「第九章ー隋代の諸宗」一八四ー一九九頁参照。「第十一章ー唐代の諸宗」二三三ー二五二頁参照。(11)『大正』三一?三五九ab(12)長尾雅人著『摂大乗論ー和訳と注解ー下』(講談社 二〇〇一)一七四ー一七八頁参照。(13)『大正』四六?一cー二a(14)菅野博史著『一念三千とは何かー『摩訶止観』(正修止観章)現代語訳ー』(レグルス文庫 一九九九)三〇ー三一頁参照(15)『大正』四〇?八三五c(16)『大正』四〇?八三六a(17)『大正』四〇?八三六a(18)『大正』四〇?八三五cー八三六a(19)『大正』二六?二三一a(20)『無量寿経』の「重誓偈」では、「我が仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくば、誓いて正覚を成らじ。」(『大正』十二?二六九b)と三誓の一つに「名声」を挙げている。(21)『大正』二六?二三〇c(22)『大正』二六?二三一a(23)『大正』四〇?八三六a(24)『大正』四〇?八二七b(25)『大正』四〇?八三六a(26)「如実功徳」は二十九種荘厳功徳の全体を示すわけであるが、それは同時にまた、先の「願生偈」の文で説かれる「真実功徳」に充当すると言われている。したがって、諸師の見解を参考までにも挙げておこう。はじめに、源廣宣氏から紹介したい。源氏は「五念門」で説く観察門が三種荘厳(仏国土?阿弥陀仏?菩薩)二十九種功徳であると示した。また、その構成は三分で検証と「正宗分」であると明かす。そして、以下のように指摘する。「その正宗分に何が説かれてあるかといえば、願生者主観の立場から云えば観見願生であり、客観的には真実功徳相そのものであること論主自身の言葉によって明らかである。それ故今如何に観見し以て願生の信を生ぜしむるかの目的を果遂せんとするには、どうしても真実功徳相を開顕せねばならぬ。真実功徳相は三種荘厳二十九種功徳として、浄土そのものをあらわすと共に、やがてこれ如来であり、又名号の開演に外なるぬので、従ってこれは単に観察の対象内容たるに止らずして、礼拝、讃嘆、作願の対象でもあり、回向の意もその中に内含せられている。(『浄土論講讃』真宗講座 一九三四 一八九ー一九〇頁)と、既に世親の『浄土論』の立場から真実功徳相の意味を投げかけている。また、一方で稲葉圓成氏は曇鸞の『浄土論註』の立場から、その事実を明瞭に述べている。「真実功徳相を「註」上に是法不顛倒不虚偽名為真実功徳相と釋し、更にそれを解説して云何不顛倒依法性順二諦故といって、それが真如法性の顕現であり、真如法性そのものであるとなし、次いで云何不虚作摂衆生入畢竟浄故と解釈して居る。…(中略)…今は真実功徳が何を意味して居るかをこの「註」によって見るに、真如法性は抽象的な概念ではなく、悲智円満の如来であり、三種荘厳の浄土である。」詳しくは、稲葉円成『往生論註綱要』(西村為法館 一九五七)五七頁参照。(作者单位为日本同朋大学仏教文化研究所)(27)『大正』四〇?八二七c(28)『大正』二六?二三一a(29)『大正』四〇?八四〇a(30)『大正』「十住毘婆沙論ー易行品巻九」二六?四一a(31)詳細は尾畑文正著『願生浄土の仏道ー信方便易行の開顕ー』(『同朋仏教』十七巻所収 一九八三)二一ー二四頁参照(32)『大正』四〇?八二六b(33)神戸和麿著『無量寿経優婆提舎願生偈註ー読解ー』(東本願寺安居講本 二〇〇六)   三四六ー三四九頁参照(34)『大正』四〇?八二六b(35)『大正』二六?二三二ab(36)『大正』四〇?八四〇ab(37)『大正』四〇?八四〇b(38)『大正』二六?四一a(39)『大正』四〇?八四〇bc(40)『大正』四〇?八四〇b

原文出处:http://www.fjnet.com/fjlw/201108/t20110803_183319.htm

以上是关于曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔的介绍,希望对想了解佛学知识的朋友们有所帮助。

本文标题:曇鸞の五念門における止観とその背景——藤村潔;本文链接:http://www.fzby666.com/changs/69467.html。

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