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法蔵菩薩論―唯識思想を通して——同朋大学 花栄

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  • 2023-10-26 16:44
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原文标题:法蔵菩薩論―唯識思想を通して——同朋大学 花栄

はじめに

本論文では「法蔵菩薩論」という課題において、曽我量深以外は誰も「法蔵菩薩阿頼耶識である」と言っていない。つまり、曽我量深は『大無量寿経』(以下『大経』)にある法蔵菩薩を単なる神話ではなく、現在の信の事実であると示そうとしているのである。その過程で曽我量深は『唯識論』にある阿頼耶識と『大経』の法蔵菩薩を見ていくことによって、阿頼耶識が法蔵菩薩であることを明らかにしたのである。本論文では「法蔵菩薩阿頼耶識」説を課題にし、推考し、尋ねていくことにした。

第一章法蔵菩薩

第一章では、法蔵菩薩を取り上げた。まず、『大経』における法蔵菩薩物語を取り上げ、法蔵菩薩と阿弥陀仏についての見解を示した。この物語を通して、法蔵が阿弥陀となったことを尋ねた。この物語は釈尊が『大経』のなかで弟子に説いた物語である。その物語としての背景には、錠光如来、光遠如来、月光如来、栴檀香如来、善山王如来といった。五十三の仏が、昔々にこの世に現れ、浄土を開き、衆生を救ったということがある。そして、五十四番目に世自在王仏が登場した。その時、この世自在王仏の説法を聞いた一人の国王は、法蔵と名乗り、浄土を開き衆生を救うとした。法蔵菩薩は、世自在王仏に出逢って二一〇億の諸仏の浄土、すなわち極楽浄土を開こうと、苦労して、時間をかけ、四十八の願を建てたのである。『大経』では、人間を救いたいという願いが貫ぬかれている。仏法は、決して偶然に説かれたのではなく、古き仏の人間救済の願いから生起し、代々仏たちによって受け続かれ、新たな姿で説かれようとしている。釈尊は、そういう願いを背景に、仏法を説こうとし、弟子たちも真剣に聞いた。こうして弥陀の願い、さらに過去五十三仏の願い、昔々の願いが、延々と受け伝えられて、ようやく今私たちに仏法が届いたと、弟子たちはそう受け止めたのである。
『大経』は法蔵が阿弥陀となったということを弟子に説いた物語である。阿弥陀が法蔵となったという側面から見ると、法蔵菩薩が本願を建て、その本願が成就するための修行をし、それが成就して仏になったのである。法蔵菩薩が修行して阿弥陀になったことを因と果ということからいえば、因の位は法蔵であり、果の位は阿弥陀となる。

第二章 阿頼耶識思想

第二章において唯識思想の中、阿頼耶識について述べた。唯識思想を述べた理由

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は、曽我量深が唯識と『大経』の法蔵菩薩とを照らし合わせて解釈しているからである。そこで、曽我量深は唯識の中の阿頼耶識についてどう捉えているのかを示した。

唯識とは「唯だ識のみ」ということである。横山紘一の『唯識思想入門』によると、唯識は「意識の構造論」に相当することが示されていた。

『唯識三十頌』『成唯識論』から見てみると、前六識は眼?耳?鼻?舌?身?意識の六識のことである。これに第七識末那識、第八阿頼耶識を合わせて八識という。前六識は第三能変ともいう。その六識は眼識は色境、耳色は声境、鼻識は香境、舌識は味境、身識は触境、意識は法境である。第七識未那識は第二能変である。未那識は自己中心性の軸ともいえるから、阿頼耶識で狭められた世界をさらに狭くする。末那とは思い量る

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、思量するという意味である。思い量るのが、このこころの本性であり、また現実の働きでもある。阿頼耶識が蓄えるというのが基本の性質であるのに対して、未那識は思量するというのがすべてである。未那識はいつも働いている心でありながら審らかに我を考えている。自分の損得の計算を忘れないので、煩惱ともいえる。未那識は、第八阿頼耶識を依り所とし、第八識が働いて転起し、第七未那識となり、そのもとである阿頼耶識を対象として自我の虚像を構画し、それに執着するところで捉えられる。次に、第三能変阿頼耶識についてである。阿頼耶識には異名があり、異熟識、一切種子識の名がある。阿頼耶識を説明するには、三相について述べる必要がある。三相とは、阿頼耶識に具せる三つの様相であって、自相?果相?因相というものである。阿頼耶識には、能蔵、所蔵、執蔵の三つの意味があり、それらをすべて合わせて自相という。阿頼耶識の異名である異熟というのは、阿頼耶識の果相につけられる名である。異熟識とは、過去の業の結果としての自己であ

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り、それは過去を背負っている人間ともいえる。因相とは現在を因として未来を果とするという一切種子識である。人間の体験の影響がすべて種子として植えつけられるのは、阿頼耶識そのものが善でも悪でもないから無覆無記ともいえる。

第三章 往生浄土―阿頼耶識をめぐって

最初に、曽我量深の「法蔵菩薩阿頼耶識」説について松原祐善、寺川俊昭、小野連明の見解からみて、平川彰への批判の誤りを指摘した。次に、往生浄土ということを阿頼耶識の視点から述べた。唯識思想の展開において、存在するものは唯だ識のみであるとさとり、その識を智慧に転換することが、、円成実性になること、言葉をかえれば真如をさとることである。このように、本論文では、「法蔵菩薩阿頼耶識」説という曽我量深の言葉はどのような意味を持ち、我々に対してどのような教えがあるのかを考察した。

特に、曽我量深の「法蔵菩薩阿頼耶識」説から考察し、曽我量深の説によって、法蔵菩薩の物語は非神話的に解釈され、さらに我々は信仰的自覚が問われ、救済されていくことが示された。

最後に往生浄土について述べた。唯識でいう「転識徳智」とは、識という認識作用を転換し、一切の現象物事をありのままに観る「智慧」である。この「識」から「智慧」への変換を阿頼耶識の根本識からみると、有漏から無漏へという転換になる。すなわち仏教ではこの「識」を「智慧」へとシフトし、釈尊の真理を得ようとするのである。それが唯識仏教の立場でもある。つまり、自己の本能に生きる存在(阿頼耶識)のあり方が迷いから覚りへと転換し、人間存在全体が究極的真理を証得できるかできないかというところに唯識の修道実践の意味内容が見えてくる。この点で考えると、親鸞教学と若干異なってくる。しかし唯識の識を転じて智慧を得るという側面は、『教行信証』の中、転悪成徳という意味と重なると言える。つまり生死から涅槃へと転換する根拠とは、如来の本願力のはたらきによって摂取不捨されて、凡夫が浄土に往生する歩みに他ならないからである。さらに、我々の生きる根源にはたらく力になっているのである。

転ずるということを上田義文は、「転依については不退位である。(不退)というのは、真に超越界に入ったものは、二度と元へ戻ることがないという意味である。完全に入りきらなかったら生死界へ戻ってしまう可能性が残るからである。不退の位に入った後も転換の過程はつづき、究極の仏位に至るまでの修行の全過程が転依と呼ばれる。」とあらわしている。

以上のように、唯識でいう転識徳智とは、識という認識作用を変革し、物事を真実にみる能力、この識から智への変化を指す。すなわち我々はこの識を智へ変革し、その智を身につけなければならないということを明らかになった。これを浄土真宗でいうと「転悪成徳」であるが、転成とは、いわゆる衆

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生の罪悪性や煩悩性を断滅し、成をなすという意味である。すなわち、如来の本願海に摂め取られ、しかもそれが如来の本願力の働きであり、我々の生きる力になっているのである。

おわりに

以上、「法蔵菩薩」「阿頼耶識思想」「往生浄土」の順次に考察してきた。特に、曽我量深の「法藏菩薩阿頼耶識」説によって、法蔵菩薩の物語は非神話的に解釈され、さらに我々の歩んでいく浄土に往生する道を明らかにされた。そのことによって、我々は信仰的自覚が問われ、法蔵菩薩の願心に目覚めて、救済されていくのである。

その視点から、唯識でいう「転識徳智」と親鸞の『教行信証』でいう「転悪成徳」という両者の転換の思想が本質的には同じであると理解することができるのであろう。

原文出处:http://www.fjnet.com/fjlw/201108/t20110809_183466.htm

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本文标题:法蔵菩薩論―唯識思想を通して——同朋大学 花栄;本文链接:http://www.fzby666.com/changs/69463.html。

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